「小さな自分」の死

先日、”生きていたくない、死んでしまいたい”  という若い方のお話を伺っているとき、ふと、もう忘れかけていたことを思い出しました。
子供の頃、私がずっと考え続けていたことは、「なぜ生きるのは、こんなに苦しくて辛いのだろう?」ということでした。
苦しいのに、なぜ生きている意味があるのだろう?
家も学校も地域も、その全てが私にとっては訳もなく重苦しく不自由で悲しく、それら全てから逃げるように、小説やアニメの世界に浸り、やり過ごす毎日。とにかくいつもダルくて、何もしなくてもクタクタに疲れていたことを覚えています。
手当たり次第に本を読み、何百本もの映画を観て、演劇や美術や音楽の世界に答えを求めても、相変わらず通奏低音のように、「生きるのは苦しいこと」という重さが取れることはありませんでした。
高校生の時、とても怖い夢をみたことがあります。
夢の中で私は、
「生きていてはいけない。消えなければいけない。」
そんな切実な思いでいっぱいになり、自ら身体を小さなピースに分けていく。
そして小さなかけらになった自分を集めた器を手に、茫然と立ちすくむ、という夢。
わぁーっ!と叫んで汗びっしょりで目覚め、思わず身体がちゃんとあることを確認して、ホッとしたのを覚えています。  
ベクトルの全てが、暗さとダルさに向かっていたあの頃。
あれからもう、40年近い月日が流れました・・・
私は何故、死ななかったのだろう?
死にたい、という若い人の訴えが、自分のことのように感じられます。
真剣に答えを求める若い人を前にして、どうして私は死ななかったのか、私も真剣に考えてみました。
ひとつ言えることは、私たちは生きている、のではなく、何故だか分からないが、何者かに生かされている、ということ。
だって私たちは、自分で心臓を動かそうとしたことがない。
今、この文章を読んでいるあなたは、今までの病気や事故や天変地異にもかかわらず、どういう訳だか、死ねなかった。
そして、そもそも何故あなたは、苦しさや重さ、寂しさや無力感を、人よりも強く感じられる能力があるのか。
それはあなたが、あなたの魂が、その反対の状態を、よ~く知っているからなんです。
もしあなたが深いところで、喜びや自由、躍動感や感動を知らなかったら、
その反対の悲しみや重苦しさ、無力感や倦怠感も感じることは、出来ないはずです。
例えばここに1枚のチョコレートがあったとして、
それがとっても不味いと感じるのなら、同時にあなたは、とても美味しいチョコレートを、すでに知ってるはずなんです。
だから、あなたが苦しければ苦しいほど、あなたには喜びが用意されている。
あなたが今、暗い世界をさまよっているのなら、その分だけ、あなたは必ず光を体験するでしょう!
あなたが人の期待通りの自分を演じることをやめ、あなたが人からどう思われるかを気にしなくなったとき、今まで良く知っていた”自分”がいなくなり、あなたは今まで体験したことのない恐怖のあと、突然に解放されたのを知るでしょう。 
そして一度あなたが光を体験したあとは、暗闇は跡形もなく消えてしまう。 
かすかな前世の記憶のように、もうそこには二度と戻ることはない。  
あなたが本当に望んでいるのは、肉体の死ではなく、枠にとらわれた小さい自分の死なのではないか? 
それは小さい「私」が体験する、死と再生の物語。 
そのことを心のどこかに、どうぞ覚えていてください・・・ 
れべいゆ