小学校低学年の時の私の通知表の評価欄を改めて読み直してみると、当時の先生は、なかなか興味深いことを書いてくれています。
「授業中、ボーッとして、話を聴いていないことが度々あります。」「とにかく忘れ物が多いです。気をつけましょう。」「世の中は自分中心に回ると思っています。」「手遊びが多いです。背筋を伸ばして椅子に座りましょう。」
これを読んだだけでも、何となくどんな子供だったのか想像がつきます。何に対しても積極性を欠き、これと言って特技もなく、ボンヤリと冴えない割には落ち着きがなく、時に強情で扱いにくい子供だった、少なくとも大人にはそう見えていたかもしれません。
当時の教科書という教科書中、あらゆる人物の写真やイラストに、カツラやメガネを律儀に書き込んでいることからも、私の授業態度が推し量られます。
この頃、教室の机に頬杖をついて良く考えていたことは、「なぜ鳥には職業がないのか?」ということです。
子供の私にとって、学校も宿題もテストもなく、将来何になりたいのかと尋ねられることもなく、自由に空を飛ぶ鳥が、とても不思議に思えたに違いありません
人間には、具体的な何かになりたいために努力するタイプの人と、私のように、普通当たり前に多くの人が受け入れていることを、「何故だろう?」と掘り下げることが好きなタイプもいます。
そして後者のような人間にとって、この世の中で自分なりにポジションを見つけて生きていくのは、なかなか骨が折れる事かも知れませんネ。
朝は定時に起き、顔を洗い、歯を磨き、ハンカチとちり紙を持ち、爪は切ってあり、きちんと朝食を摂り、元気に挨拶をし、日課表を見て忘れ物をせず、定刻に教室に着き、先生の話をもらさずに聞き良く分かり、給食は時間内に残さずに食べ、休み時間は活発に運動場で遊び、友達には優しく、フワフワ言葉を使い、掃除はサボらず、寄り道や買い食いをせずに安全に家へと帰り、うがい手洗いをして風邪にも罹らず、帰ったら遊ぶ前に宿題をして、夕食は家族全員が笑顔で感謝して食べ、食べた食器は片付け、お風呂に入り100まで数え、速やかに着替えて少しだけ読書をしたら、歯を磨いて夜9時には布団に入る…
そういうものに、私はなりたい、と思っていたのですが、ついにその10%も達成できないままに大人になってしまいました。もちろん、割と楽に苦もなくこなせる人も、ちゃんといらっしゃるとは思いますが。
こうやって書き連ねてみると、いかに子供の頃の私には、これらを達成することが難しかったかが分かります。
だって大人になった私だって、誰かが決めた理想の人で居続けることなんて、到底出来そうにありません。
でも、真面目な子ほど、「なんとか大人の要求に応えよう、喜ばせてあげたい。望まれる子になろう、出来る!」と思ってしまいます。そして、頑張っても頑張っても結果が出ないので、理由なく疲れてダルく、何か目的を持つこともしんどくなってしまうのです。それどころか、出来ない自分に幻滅して、これ以上の失敗を恐れ、自分の殻に籠りたくなることもあるでしょう。
小さい頃の私と同じように、いろんな想像をしてみます。
大人も子供も、もう少しだけハードルを低くして生きたら、世の中はどうなるだろう?
好きな時間に起きて、好きなだけ学び、好きな時間に帰ったとしたら、学力は本当に落ちるのだろうか?
一度習ったことを、帰宅してまで復習して、それでも忘れるようなことを、そもそも覚える必要があるのだろうか?
そして日本国民の全員が、秀才を目指す意味は何なのだろう?
平均って、何なの?どんな意味があるの?
平均よりも下だと、何か問題なのだろうか?
決められた規律を正しく生き、与えられたタスクを達成しなければ、将来、幸せな生活が出来なくなるという社会的な脅しは、本当の事なんだろうか?
還暦もいよいよ近くなった私は、その本質は子供の頃とあまり変わっていないようです。
最近になって気付いたことは、人は、望んでいないことをやろうすると、どういうわけだか上手く行かないようになっているということ。
自分以外のものになろうとしたり、ワクワクするような感動が伴っていない行動は、エネルギー効率がとても悪いのです。
ですからもし、教室で頬杖をつく子供の頃の私にもう一度会えるなら、こんな風に言ってあげたい。
大人の建前を真に受けて良い子を目指しても、残念ながらあなたは、それには成ることはないだろうよ。
あなたは生涯を通じて、興味のあることを探求し続けることだろう。それ以外のことには、かなり手抜きで大雑把だろう。
そして思ってもみなかった素晴らしいものに、沢山出会うことだろう。
良い子を目指してはダメだ。そんなに器用ではない。早目に諦めて、自分の道を歩きなさい。
あとのことは気にするな。勉強でも人付き合いでも、やれる分だけでいい。
「絵里ちゃんって、ちょっと変わってるけど、フツーに無害な人」、そこらへんをボチボチ狙おうよ。
大体の社会的なルールを守れたら、取り立てて立派な人でなくてもいい、自然にやりたいことをすればいい。
やれないことはやらなくても、死にはしない。大丈夫だよ、どうにかなるさ。
実際、どうにかなって来たものね。
そのおかげで今は夏休みの小学生のごとく、いつも活力に満ち溢れています。
梅雨空の晴れ間を縫ってトンビたちが、遥か上空をイベルタルのように優雅に舞いながら、「燃えるゴミ」を出しに行く私を、空から珍しそうに眺めています。
何かを作り、ゴミを作り、ゴミを出し、回収して処理をする。
そんな人間たちを上空から、「不っ思議だね~」と、観察しているのかもしれませんネ。
ぴーひょろろ~、ぴろぴろぴ~、と笑いながら…
れべいゆ