暑い暑い夏も峠を過ぎ、夜は早くも鈴虫の音が涼やかです。
夏休み後半のこの時期とても多いのが、子供さんのお勉強に関するお悩み…
毎日ゲームやり放題、たまに外出したかと思えば友達と遊び惚けて、宿題をやっている気配もなし。ウチの子は大丈夫でしょうか?と。
昭和の時代は、ゲームなんて無かったですからね。
鉄棒ひとつ、けん玉一個あれば、それでいつまでも遊んでいました。
実は私は、小学校から高校を卒業するまで、親からは只の一度も、「勉強しろ、宿題はやったのか?」と言われたことがありません。
学力優秀だったのかというと決してそのようなことはなく、ただ当時の親は、戦争の時に失った子供時代を取り戻すかのように、子供のことよりも大人同士の付き合いの方が優先していて、子供なんてものは学校にさえやっていれば、きっとそのうちにどうにかなるさと、信じて疑っていなかったようなのです。
この写真は、れべいゆさん1歳7か月。将来、長崎の離島でタロット占いをするだなんて夢にも思わずに、呑気に父母に抱かれておりますね。
昔この写真を子供の時分に見た時には気付かなかったのですが、戦争が終わって平和になって、焼夷弾も落ちてこない、防空壕に入ることもない、ご飯も腹いっぱい食べられる、親の決めた相手ではなく自由恋愛で結婚できる、好きな職業が選べる…そんな歓びが満面の笑みに満ちているように思われてなりません。
父は理容師、母は美容師で、当時は東京に住んで、力道山や藤山一郎さんなどが常連の一流店で働き、大学の初任給が2万円くらいのとき、1万円札をチップに貰って、仕事帰りに銀座の寿司屋で一貫千円の大トロを食べ、タクシーで家まで帰った、と、良く武勇伝を聞かされました。バブルの頃よりもバブリーですよね。
その後、私が生まれて、宵越しの金は持たないような生活を改め、二人で小さな理髪店を出したそうです。
この幸せいっぱいな写真を撮ったすぐあとに、父は酷い胃潰瘍となり、胃のほとんどを切除するという大手術を受けるという運命が待ち受けているのですが…。
父が重篤な胃潰瘍で長期の入院を余儀なくされたとき、孤児だった母は頼れる親戚も知人もなく、もちろん医療保険などもなくて、幼子を抱え高額な入院費を支払うという、どん底人生に一気に落とされました。
二重苦三重苦の大ピンチに陥った時、母がピカッと思いついたのは、「移動美容院」だったそうです。
旅行用のバスケットに美容道具一式を入れて、幼い私の手を引いて、高度成長期の当時、各地に林立し始めた団地を回り、飛び込みで「パーマをかけさせていただけませんか?」と行商したというのです。
戦後のベビーブームの頃、どの家も貧しかったのですが、どこか希望に萌え、女性たちは皆、オシャレをしたがっていました。
そこで母がパーマをかけている間、私は団地の子らと遊び、時にはオヤツやお下がりの洋服などもいただき、結構楽しく、母と共に毎日出勤しておりました。
ですから私は今でも「団地」を見かけると、自分では一度も住んだことがないのに、とっても懐かしくなるのです。今でも何故だか温かい気持ちが胸いっぱいに広がるのは、きっと行く先々で団地の人たちに、優しくしてもらったからではないかと思うのです。
はい!時間が50数年飛んで、こちらが現在の母です。
父は20年前に他界したのですが、母は実家で43年、現役で美容室を営んでおります。現在85歳です。
母は昔の貧しかった頃の話を、とても楽しそうに繰り返し話してくれました。
食べるものが無くて海岸で毎朝、海藻とアサリ貝を拾ってお汁にして食べた、とか、庭の雑草を天ぷらにして食べたら美味しかったとか、肉が買えないので鶏ガラを買ってきて、わずかにくっついている肉をこさぎおとして食べたとか、大笑いしながら何度も、何度も話してくれました。
そんな親に育てられていますから、私の頭の中は、「生きること」で常にいっぱいです。
一生懸命に「生きること」は、何よりも面白い遊びです。
以前何気なく母に、「偏差値って、知ってる?」と尋ねたことがあります。
「へんさち? へ? それは食べられるのもの?」という答えに、ひっくり返りました。
少しは教育というものに、関心を持ってもらいたいところです。
しかし、「ナイナイ尽くし」の大ピンチを逆手に取り、その状況でしか出来ないような面白いことを立ち上げる脳天気さは、母から受け継いだ遺伝子に違いありません。
それは私が親からもらった最大の宝物だと、半世紀たってようやく思う、今日この頃です…。
れべいゆ