いつもそこにあったもの

ある日の午後、ふと窓外のグランドに目をやると、いつもと何だか景色が違います。

 

ああ…

 

朝から鳴り響いていたチェーンソーの音は、もう何十年もここにあった、大きなパームツリーを切り倒していたのでした。

 

仲良く天を仰いでいた3本の樹は、嵐の日も日照りの日も気持ち良さげに風にそよぎながら、ドッシリと根を張り、いつも私に「大丈夫だよ。」と、微笑みかけていたのでした。

 

そこに当たり前にあったものが無くなるのは、本当に空しいものです。

 

 

 

 

去年の5月に、母が他界しました。

 

ちょうど私が大分の実家に帰省しているときで、前の日まで自分でお風呂に入り、お化粧もして、お料理好きな京子さんの手作り弁当を、「美味しい、美味しい。ありがたいねぇ。」と食べたのが、人生で最期の食事となりました。

 

末期癌ではありましたが、手術も延命もせず、とても穏やかに、眠るように旅立ちました。85歳、波乱万丈の人生でした。

 

 

大分から長崎へ引っ越すときに、私は覚悟を決めていた筈でした…。

いつ何時、このような別れが、突然に来るかもしれない、と。

 

でも、救急車で運ばれた病院の霊安室で私は、まるで孤児となった小さな子供のように、心細くて大声でワンワン泣きました。

そんな風に泣いている私自身に、自分でいちばん驚いていたのです。

 

ああ、人が一人前の大人になるのは、なんて難しいのでしょうか。

 

 

でも、考えてみると、私が産まれた時から、ずっとそこに居た人です。

 

 

 

コロナ禍のために、葬儀は家族だけでしみじみと執り行うことが出来ました。

 

弟と一緒に母の遺品の整理をしていたら、昔私が母にプレゼントした手提げ袋の中から、十代の時から最近まで、私が送った手紙や葉書が沢山、沢山、出て来ました。贈り物に添えたちょっとしたメモ書きまで、きっと捨てられなかったのでしょう。

 

 

時に母の不器用な愛は、鬱陶しくも重たくもありました。

 

ある部分は受け入れ、ある部分は見ないようにして、ちょうど凸凹のパズルのピースが噛み合っているように、お互いの歪さと、上手にバランスを取っていたのでしょう。

 

 

そのパズルのピースが消えて、私は今度は自分自身で、新しいバランスを作って行かなくてはなりません。

 

長年に及ぶ母と私のバトルは、最後の最後に、母親のサヨナラ満塁逆転3ランで、完璧に母の大勝利となりました。

 

 

 

 

 

母と入れ替わりのように、我が家に野良猫がやって来て、納屋で5匹の赤ちゃんを産みました。

 

まだほんの子猫のような母猫なのに、誰から教えられもせず、独りで産んで独りで世話をして、せがまれればいつでも乳をやり、ゲッソリとやせ細りながらも、一生懸命に子育てをしています。

 

仔猫たちは全員スクスクと育ち、勝手に納屋を出て母屋を占拠し、日夜可愛らしい運動会が繰り広げられるようになった頃、母猫は突然に、母であることを辞めてしまいました。

 

仔猫が乳房に近付くと、ウーッと威嚇して寄せ付けません。

 

もう離乳食をふんだんに人間から与えられるようになった途端、アッサリと母親役を降板し、呑気な昼寝猫に戻ったのです。

 

 

人間はなかなかそうは行きません。

 

40になっても、50になっても、母親に優しさと保護を当たり前のように求めるのですから、人間は一生、大人になるのが難しい、変な生物なのかもしれませんね。

 

 

いつも当たり前に空気のようにあるものは、失くした時でないと本当の存在の大きさは、分からないものなのでしょう。

 

そんなことを考えている私の膝で、早々と母親を卒業したエトちゃんが、静かに寝息を立てています…

 

 

れべいゆ